猫が吠える

我輩は猫である。名前はみずき。

ノルウェイの森を観ました。

映画化された『ノルウェイの森』を、公開日に観てきました。
村上春樹の小説が好きだし、ノルウェイの森の原作も好きで、直前に原作読みなおして、あんまり期待しないようにしようと思いつつも期待して観にいきました。


私は原作が好きすぎてというか、感情移入しすぎてしまっているので、純粋に一本の映画として観られなくて、映画としてどうだったかっていうのは判断できないですが、あの原作の映画化としては、かなり不満です。
まあ原作が好きなものの映画化なんていつもそうだし、上下巻のあの量を2時間ちょっとの映像になんかできるわけないと思うけど。


村上春樹の小説はいろんな国で読まれてて、どこの国のひとも自分の国でのできごとのように感じるという話を聞いたことがあるんだけど、そうやってそれぞれの読者が自分の中にその物語の世界を作り上げてるんだと思う。それぞれの中に、ワタナベくんや直子やキズキやレイコさんのイメージがあって、ワタナベくんの入ってた寮や阿美寮やバーやカフェや直子と歩いた道程やそういうイメージがあって、だからそれを映像にして見せられてしまうと、みんな違和感持つと思う。登場人物みんな違和感あったし、どの場所にも違和感あったなあ。まあでもそこは、原作からのイメージが薄らいだ状態で観てたらとくに気にならなかったかもしれない。


原作読んだときにも感じた"読んでてつらい感じ"は、原作以上にあった気がする。たぶん、聴覚からも情報が入ってくるせい。文章で読んでると、情景や音は自分で想像して頭の中に描くだけだけど、否応なしにむこうから入ってくるから、余計つらいね。声とか、音楽とか。音楽こわかったなあ。ものすごく、締め付けられるかんじがした。ひとことで言うと、"死にたくなる映画"かなあ。


続きはネタバレです。






まず全体的に、性描写多すぎだと思う。それまでの流れとかあんまり丁寧に描かれないでそういう場面ばっかり入れすぎじゃないかなあ。あと時間的に仕方ないのかもしれないけど、場面がたくさん省かれてるし、ひとつの場面の中でも省略が多くて急ぎ足だったように思う。たとえば直子の二十歳の誕生日に直子の家でセックスするとき、それまでのどうしようもない感じがあんまり伝わってこないし、直子が痛がって、ワタナベくんがずっと待ってあげる優しさもなかった。阿美寮に会いにいったときも、レイコさんと3人で話したりすることはほとんどなくって、性描写ばっかり、ワタナベくんと直子が話すことも、セックスについてばっかりだったような気がする。
それから、レイコさんの生い立ちについて一切触れないで、最後にセックスだけするっていうのがものすごく不満。レイコさんについてはなにも触れられなかったから、最後セックスしないんだろうと思ったし、ワタナベくんのところにも来ないのかと思った。っていうかその場面はいらなかったと思う。それまでについて描かないのなら。
どうしてその場面を入れてあの場面を入れないんだろうというのが多かったなあ。
私は、キズキが死ぬまでなんてなくてよかったと思うし。


違和感をひとつひとつ書いていったらキリがなさそうだなー。


あとひとつだけ挙げると、レイコさんを演じてる女優さんは、イメージが違いすぎた。もっとさばさばした感じがよかった。


直子も違和感あったけど、なんかでも原作とはまた違った直子としてあれもありなのかなーという感じもした。うまくしゃべりすぎじゃないかとは思ったけど。阿美寮にワタナベくんが会いにいって、外で二人で話していて、直子が泣きだして走っていってしまうシーンとか、観ててすごくつらくて、退席したくなった。そういう意味で、もう一度観たいとは思わない。
たぶん家で観ようとしても、最後まで観られずにギブアップすると思う。
ものすごくこころを抉られる映画ではあった。



この映画、原作読んだひと向けなのだとしたらものすごく足りなさすぎる気がするし、だけど読んでないひとが観てもあんまり伝わらなさそうだし、どういうふうに観てほしいんだろう、と思ってしまった。
たとえば突撃隊については、ただの同居人としてしか描かれていなくて、名前(というか突撃隊というアダナ)は一度も出てこなかったと思うんだけど、エンドロールには「突撃隊」って書いてあって、原作読んでないひとにはわからないだろうしうーん、と思ったりした。


そんなかんじで、原作を直前に読まなければよかったのかもしれないし、原作読まずに観ればよかったのかもしれないし、でもやっぱりあの作品は映像として観たくなかったのかなー、というかんじ。