猫が吠える

我輩は猫である。名前はみずき。

私のはなし

私は自分で、性格や思考やなんかそんなものに欠陥があると思っているんだけど、いつからどうしてそんなふうになってしまったんだろうと思って、小さいころからの自分について書いてみる。
これこれまでの話 - make for h @ppy_things;読んで書きたくなったというのもあり。

幼稚園までのはなし

1988年8月4日に一番上の子として産まれて、それから3年と数日後に妹が産まれた。
幼稚園の年中の年まで川崎にいて、年長になる頃に横浜に引っ越してきて、小学校1年から3年のときは中国の上海にいた。


最初の記憶については以前のエントリ「最初の記憶 - 猫が吠える」に書いたので割愛するけど、簡単に言うと、2歳半のときに怖いものを怖いって言うのはカッコ悪いと思って見栄張ってた記憶。同じように見栄張ってた記憶は他にもあって、幼稚園ごろまで私は風船が怖かったんだけど、お祭のときに遠くに風船が飛んでるの見て怖いって思ったけどガマンしたこともあったなあ。それは年中か年長のこと。


これは後に母から聞いた話だけど、赤ちゃんのころから昼寝しない子で、自分で納得しないと寝なかったらしい。だから寝かしつけるのが大変だったんだって。同じようなことだと思うけど、なんでも自分の気の済むまでやる子で、公園で他の子が砂場から離れていっても私だけ一人砂場に残って自分の世界に入って何かしてるような幼少時代だったらしい。そのへんは覚えてない。
それと、あんまり泣かない子だったし、妹が産まれて両親が妹に手をかけていてもとくに拗ねたり赤ちゃん返りしたりせず、いい子だったって言ってた。
こういう話を聞いたのは、大学の授業の課題で幼少期を振り返るレポートがあったから。そのとき母にインタビューした。
自分が思い出せることとしては、いつからだかわからないけど親をはじめ他人に甘えるのが苦手だったし、自分の思ってること伝えるのも得意じゃなかったなーってこと。今もそう。それと、最初の記憶もそうだけど、家族の前ではかっこつけたがるとこも、小さいときから今までまったく変わってないと思う。


年中から入った幼稚園は、目上の人には敬語(丁寧語)を使いましょうっていう教育をしている幼稚園で、私にとって先生たちはとっても上の、まったく届かないような人たちだったので私は先生たちに敬語を使っていて、だけどある日、先生たち同士がタメ口で話しているのを聞いてしまって、先生がタメ口きかれてるっていうことにものすごくショックを受けた。まあそんなの先生同士は対等かもしれないし先輩後輩あるかもしれないしタメ口きくのもべつに普通でしょうって、そりゃ今思えばそうなんだけど、幼稚園生の私にとって、絶対的に上にいる人が絶対じゃないこともあるんだってのを見せられてしまって、ショックだったんです。


さっき「泣かない子だった」って書いたけど、それでも年中ぐらいまでは幼稚園でもときどき泣いたりしてた。理由とかはぜんぜん覚えてないけど。でも、年長になったらなぜだか泣かなくなった。先生にも、泣かなくなったねって言われたの覚えてる。

小学校低学年のはなし

幼稚園の年長が終わるころ、阪神淡路大震災が起きて、地下鉄サリン事件が起きて、それから少しして父の仕事の都合で中国の上海に引っ越した。
上海日本人学校に3年間通った。
最初の国語の宿題がひらがなの練習で、名前を書かずに出してしまった。何人か名前書き忘れたひとがいて、私は「ん」の文字が綺麗に書けなかったので、「ん」が綺麗に書けてるひとのものを私のだって言いたかった。綺麗な「ん」の持ち主が自分のだって言っちゃったからできなかったけど。
1年生のときの先生は女の人で、あんまり好きじゃなかったけど熱心に教育してくれる人だったなあ。
2年生のときの先生は、今でも年賀状をやりとりしてる。「いい先生」ってかんじの先生だった。ああいう先生がもっとたくさんいたら学校楽しいだろうなーと思う。
たぶん2年生ぐらいから、男の子とじゃれ回って遊ぶのが好きだった。遊びなのかケンカなのかわかんないことしてしょっちゅう引っかき傷とか作ってた。小学校6年生まで変わんなかった。
3年生は、女子の派閥争いみたいなことしてた。Tちゃんがリーダーの「ひみつクラブ」っていう派閥があって、Tちゃんのことを嫌いだった人たちが集まって私がリーダーだった「なかよしクラブ」の派閥争いで、クラブ内で交換日記したりトイレの個室に籠って「会議」したり、ふつうに遊んだりした。あっちのクラブのひとと一緒にいちゃダメだよ、みたいな暗黙の決まりがあったりした。とくにTちゃんと仲良くするなんて、論外だった。だけどだんだん「なかよしクラブ」がただの悪口言う仲間みたいになってきて私はそれに嫌気がさしてTちゃんと仲良くしだした。意外といい子だったんだよ。そしたら、まあ当然っちゃ当然だけど「なかよしクラブ」のひとたちに仲間外れにされていじわるされたりするようになって、決裂して、みんな「もうなかよしクラブやめるから! 」ってなってってなんかでも最後はみんな仲良くなったかんじにはなった。3年生が終わって私が日本に帰るので、上海に残る元「なかよしクラブ」メンバーから手紙とかもらって、「あのときはごめんね」「言い過ぎた」「また仲良くしようね」とかってこと書いてあった。でも私はあんまり許せなかった。


あとは、日本人学校では毎年どんどん人が入れ替わるので、毎年度末に学校全体の文集を作ってたんだけど(途中から生徒数が増えすぎて低学年と高学年で分かれるようになった)、たぶん2年生の文集に、半分フィクションの作文を書いた。今思えば早すぎる厨二病だった。


そんなこんなで、日本に帰ってきた。

小学校高学年のはなし

地元の小学校に転入して、なんだかよくわからないけどけっこうすぐに解け込めた。みんないい人だった。
高学年になってもやっぱり男子と遊んでるのが好きで、というか3年生のときの面倒で凝りたのかもしれないけど、じゃれ合ったり、ドッジボールしたり、バスケしたりしてた。元気な子だなあ。


4年生からクラブ活動があって、私は屋内球技クラブに入った。5年生は太鼓クラブで、6年生はまた屋内球技クラブだった。
5年生からは委員会活動があって、私は2年連続放送委員をやった。放送委員は、メンバーがとっても好きで、楽しかった。給食の時間に放送するためにみんなより早く給食たべられるのとか、特別なかんじがして嬉しかったし、掃除とか朝会とかのとき、放送室にいられるのも楽しかった。放送室の鍵が実は全部の教室のマスターキーだってことに気付いてあちこち侵入したり、パイプ椅子で遊んでたら体が抜けなくなって授業に遅刻したりして、とても楽しかった。卒業前に、放送委員メンバーで近所の遊園地に遊びに行ったりもした。


同じマンションに住んでる友達が中学受験をするらしいって話を親が聞いてきて、なんだか私も中学受験をすることになった。5年生から塾に通いだした。みんなは4年生とかもっと前とかから塾に通って勉強していたので当然最初は下のほうのクラスだったんだけど、まあ少し通ってたら追いついて、このへんの女子が通える学校の中で一番偏差値の高い学校を目指すって言えるぐらいになった。
中学受験のための勉強はすごい楽しくて、先生の話おもしろいし、問題解けたら気持いいし、ぜんぜん苦じゃなかった。小学校のころから塾に通わされて勉強させられてかわいそうみたいなこと言う人いるけど、私はそんなことまったく思ったことない。
そんなこんなで第一志望だった、このへんでは一番偏差値の高かった、中高一貫の女子校に合格しました。受験後、受かってる自信もあった。受かって嬉しかったけど、当然だとも思ってた。落ちる気はまったくしてなかった。


まあでも受験勉強が楽しかったって言っても、友達と放課後に遊ぶとかはしてなくて、受験が終わってそれができるようになったのは嬉しかった。
いつもツルんでた男子二人がいて、3人で公衆電話から余ったテレホンカード使ってイタズラ電話かけて、うんこのはなしとかした。もう時効だよね……!


そういえば塾では仲良かった女子グループからなぜかハブられるということがあったけどまああんまり気にせず強く生きてました。


小学校高学年は、とっても楽しくて、中高時代の私の中では理想郷のような存在で、いつもあのころに戻りたいって思って過ごすことになった。
卒業式では仲よかった女友達と抱き合って号泣した。
小学校6年間とおして、恋はそれなりにしていたし、とくに6年生のころは恋の存在はけっこう大きかったけど、そのときまだ「付き合う」なんて概念は私の中になかったし、とくにその後なにかあったようなことはない。

中学・高校時代のはなし

中学に入って、みんながおとなしくてびっくりした。
「お嬢様学校」とかよく言われるけどそれはまったく嘘で、みんな奔放なかんじだし、すごいお金持ちなんてまあたまにはいるけどそんなにたくさんいるわけじゃないし、そういうかんじのおとなしさじゃないんだけど、たとえば最初の国語の時間に先生に挙手を求められて挙手したのが私だけだったこととか、みんな緊張してたのかもしれないけど、ほんの少し前までイタ電でうんこの話してた私にはびっくりするぐらいおとなしい世界だった。


その中学はうちから電車で1時間ぐらいかかるところにあって、中学1年生でいきなり通勤ラッシュの電車に放り込まれて、ものすごく疲れたし、眠かった。だから授業中居眠りしてた。そんなことしてたら中間試験の時期がきて、小学校じゃ経験したことない「試験勉強」ってものに出会って、どうしたらいいんだろうなあと思ってるうちに周りはみんな勉強してて、よくわからないまま試験を受けた。あんまり成績とか覚えてなかったけど、最初はまあ中の上ぐらいだったのかな。だけどだんだん落ちてった。好きな先生の授業しか聴かないし勉強しないし、数学とか英語とか一度踏み外したらもうできる人にはなれないし、中学高校はずっと下から1割ぐらいの成績だったんじゃないかなー。勉強楽しくなかったなー。
部活は全員なんかしら所属しましょうってことになってて、私は運動苦手だったけどバスケは好きだったから、バスケ部に入った。1年生が18人もいた。それなりに足速くなったりとかはしたけど、だいたいベンチにいた。
3年生ぐらいになるとだんだん学校楽しくなくなってきて、というか、それまでとくに好きでも嫌いでもなかったのが、イヤだって気持が強くなってきて、原則全員そのまま高校に上がることになるんだけど、高校上がりたくないなー、と思ってた。でも私が高校に上がる年は妹が中学受験の年で、妹も私の通ってる学校を目指してたので、辞めたいなんて言えず、結局そのまま高校上がった。
私が集団の中にいるのが苦手だって意識しだしたのもたぶん中学入ってから。小学校のころはそんなこと考えてなかった。中学のころから今までずっと、集団の中にいると自分だけおかしな行動しているような気になるし、空気読めてないんじゃないかと思うし、言いたいこと言えないし、中3のころとかは、人前にいるときの自分は普段と違ってどうかしてしまってるというふうに思ってどうすればいいのかって悩んでた。


私の通ってた中高の生徒会は中高一貫で、役職に就くのはだいたい高校2年生でした。私は中3の終わりに副会長選挙に立候補して一つ年上の対立候補に勝って高1で副会長をやって、そのまま高2では生徒会長をやりました。学校嫌いだったのに、なんかやってた。「こんな反抗的な生徒会長は初めてだ」とか言われた。それでもまあやってた。
高1のころはまだ、文化祭に出展するために友達数人とグループ組んでとかってやっていたけど、高2になるとなんかあんまり友達もいないなーって感じになって、生徒会の仕事のために週に何度か昼休みを生徒会室で過ごしたんだけど、教室でだれかと、またはひとりでお弁当たべるよりいいよなーってかんじで、とくに周囲が変わったわけでもないのになんだか暗い子になってった。


そんなこんなでそんなまま生徒会長の役目は終わって、引退して、3年生になって、暗い子は加速した。
クラスには友達もいたし、お昼いっしょにたべるような人たちもいたんだけど、人といっしょにものをたべるのができなくなって、人といるのが怖くて、人の視線が怖かった。とくに何かあったわけじゃないけどなんでだかそうなった。教室でたべられないのでお弁当を捨てたりしてた。ごめんなさい。
学校行きたくなくて、でも欠席すると親に連絡行くし、親が家にいるあいだに家にいるわけにもいかなくて、朝登校するフリをして親が仕事に出掛けたころを見計らって帰って寝て、昼過ぎから学校行ったりしてた。一番ひどかったのが高3の春ごろで、今までの22年半ぐらいで一番しんどい時期だったなーと思う。病院行けは何回か言われたけど親に言うのが無理だったから行ってない。


まあでもそんなんでも悪いことしかなかったわけじゃなくて、そんな精神状態でいたので2ちゃんねるのメンヘラ板とか見てたりしたんです。そこでシロップ(Syrup16g)を知って、興味持ったんですね。それがこんなにハマることになるんだから、まあ悪いことじゃないでしょう。ああやっぱりシロップってそういうバンド、って思われそうだけど。
それから、「文字と音楽と千葉に関する思い出、いつかという未来 - 猫が吠える」に書いた千葉の人といろんな言葉のやりとりをできたのも、この時期いろいろ考えてたからだろうなと思う。
この頃は、音楽聴いてラジオ聴いてるのが楽しくて、深夜ラジオ聴くために夜更かしして、新星堂に通って、お小遣いはすべてCDに使ってた。


ところでちょっと脱線するけど、なんで音楽好きになったか思い出してみた。
中3のころ、みんながアイドル雑誌を持ってきて、切り抜いて交換してたのよね。「私翔くんが好きー! 」「私三宅くんの写真ほしい! 」みたいな。で、ある日だれかの持ってた嵐のニノの写真がとってもかわいく見えて、そっからニノ大好きになったのね。で、毎週やってたラジオ聴くようになって。ニノがいろんな曲流してて。スキマスイッチとか柴田淳知ったのもニノのラジオきっかけなんだよねえ。
それでCD聴きたくて新星堂行って、そしたらすごい未知の世界が広がってて、魅せられちゃったというわけ。
ロキノン厨になるきっかけがジャニーズだった。
あとは、他のラジオ番組も聴くようになって、部屋で唯一聴けるのがFMヨコハマだったから、深夜、ずっとFMヨコハマ聴いてた。それで横浜で活動してるインディーズのアーティストとか知った。N.U.とか、RADWINPSとか、いきものがかりとか、とか。
脱線終わり。


それでまあでも高3といえば大学受験で、私もそうで、高校2年の秋ぐらいから塾に通いだした。塾の英語の授業が楽しかった。英語はまあそこそこ得意になった。世界史が苦手だった。
春の精神状態はしばらく続いてでも夏休みになって学校がなくなると、けっこうマシになったんじゃないかと思う。マシになった、っていう程度だけど。
夏には塾の夏期講習があって、授業や自習のためにほとんど毎日塾に通った。友達ができたので、毎日塾で遊んだ。塾が休みの日にはその友人たちと近所の地区センターに、勉強しに行くという名目で遊びに行った。地区センターでまた同学年の友達ができた。その友達の一人に11月に恋をして、初めて付き合って、2週間ぐらいで振られた。12月中旬のこと。
そんな受験直前に振られたりなんかして、当然勉強なんかできなくなるわけで、それでもまあさすがに1月や2月になれば勉強したと思うけど、それで受験を迎えて、たくさん受験した中唯一合格した学校・学部に入学した。このへんについては以前「卒論を提出して、試験を受け終わりました - 猫が吠える」で書いたから省く。


高校の卒業式は、初めて6年間も通った学校だったのに全然悲しくなかった。泣かなかった。やっぱり学校は嫌いだった。とくに後半は、苦しい思い出だった。


それでも大学に入ってから考えたとき、同じような家庭環境で同じような経験をしてきたのが180人もいたから、過ごしやすい環境ではあったのかもしれないなと思った。
当時の私にとっては過ごしやすくなんかなかったんだけど、それでも大学にいる人間の多様さに比べたら、あまり頭や神経を使わなくてもラクにいられる場所だったのかもしれない。

大学のはなし、今のはなし

大学でのはなしは普段からいろんなエントリで書いてるからまあいいや。
人が怖いとかそういうのは、ずいぶんマシにはなってた。けど初めて会う人間がたくさんいて、サークルの新歓だとかいって食事に連れていってもらったりして、そういうのはどうしても苦手だったし、ひとがいるとたべられなかったりもした。
でも、いつの間にかほとんど克服してることに最近気付いて、びっくりした。今は、気分によるけどだいたい平気。あんまり気にならない。まったくじゃないけど。時間が解決してくれたんだなあ、たぶん。


大学生のあいだにも、しんどかった時期はもちろんあって、だけどそのたびに高3のときのほうがしんどかったって思ってやりすごした。それに大学に入ってからの私のほうが、しんどさの和らげ方をたくさん知ってた。アルコールやタバコで体を傷めている気分になれば少しは心はラクになるし、腕を切れば騒がしい気持は落ち着く。
そんなことしないでも自分くらい守れるようになりたいね。


今は就職も決まって卒論も終わってあとは成績と卒業式を待っている身。
ここまで私は運が良くって、たいした努力もしないで大学に入れて、内定をもらえて、それがコンプレックスのようになっている部分がある。だったらなにか努力すればいいじゃないかっていう話なんだけどそれもしない。どこかで痛い目見るんじゃないかってときどき怯えながらやっぱり運に頼って行きてる。痛い目見たらそのときに考えればいいかなとも思う。

最初に戻る

最初の、いつから私はこんな人になってしまったのっていう問いだけど、どうやら中学生から高校生のときにおかしくなったみたいだね。
小学校までは元気な小学生だったもの。
多少意地っ張りとか感情表現が下手とかはあったけど。

幸せというもののはなし

中学生や高校生だった私を慰めてやることで、平和で幸せな将来があるといいなとここで締めそうになったのだけど、私には幸せというものが似合わないことには先日気付いたんだった。
彼氏とハダカで同じ布団かぶって、彼氏が私の腕の傷をなぞる。「どうしたの」「さわられるのイヤ? 」「そういうところも含めて好きだ」。私はそんな傷が好きなわけがないし、付けたくて付けてるわけじゃない。平穏を保つために仕方なく、ほとんど衝動的にやってるだけで、べつに血が滲むのを見るのが好きなわけでもないし気持いいわけでもない。そんなところまで認められてしまって私はどうしたらいいんだろうと思った。そんなに言ってくれる人がいる私はとても幸せ者だと思った。そんな幸せは私には似合わないと思った。すべて引っくるめて愛してもらうほど私の中身は綺麗じゃなくて、自分でも嫌いな汚いところがたくさん。こうやって説明するとそうじゃないんだって説得されてしまいそうだけど、私の感覚がそう言ってるんだからそうなんだ。幸せだと感じて、それに居心地の悪さを覚える。こうやって言うことが彼氏や周りにいてくれる人を不快にさせて傷つけてるのはわかってるんだけど、わかった上でやってる。
だからもしかしたらずっとこうやって自分や周りの人間を傷つけながらしか生きていけないのかもしれない。
もしそうだとしてもこれは絶望や諦めじゃなくて肯定ではあるつもり。


今に近付くにつれて客観的に書けなくて感情的になってしまった。終わり。