猫が吠える

我輩は猫である。名前はみずき。

娘が1歳になった

娘が1歳になった。

 大きな病気や怪我をせず無事に元気に1歳を迎えられてとてもめでたい。嬉しい。


 1年前の2016年2月8日のお昼過ぎに、52.2cm, 3440gで産まれた娘は1年かけて、81cm, 10.0kgになった。産まれたときから今までずっと、成長曲線の上限を辿ってきた。
 下の前歯が2本、上の前歯が1本生えた。
 最近は夜お風呂上がりにしかおっぱいを飲まなくなっていて、1歳になった今日は、お風呂上がりの授乳もなしで平気で寝てしまった。もう卒乳かな。お酒が自由に飲めるのは嬉しいけど、寂しいな。文字通り一年中おっぱいあげてきたので、それがなくなるというのは。

私の思い

 娘は、私の腹から出てきたとは思えないくらい、いつも明るくて楽しく元気よく、しっかり自己主張できて集中力のある子だ。もちろん親馬鹿全開の私の目から見た様子だけれど。


 それは、もちろんたまたま娘が持って産まれた性質によるところが大きいのだろうとは思いつつも、私がこうなってほしいと願って育ててきたことが功を奏しているのなら嬉しいと思う。本を読んだり人の話を聞いたりして知識を得ようとし、それらを土台に「うちのやりかた」がある程度は確立されて、それに沿った育児をできてきたんじゃないかなと思っている。
 だけど、育児というものを1年間してきて、育児なんてのは本当に親の自己満足だと感じる。そもそも子どもが欲しいと願ったのは親であって、この子はそれに付き合わされて産まれてきちゃったんだから、あんなにこんなにお金や時間や手間を掛けたんだなんて子どもに主張するのはおかしなことだ。子どもからしたらそんなの知ったこっちゃねえって話だ。私は私が満足するように、なるべく子どもにとって良いと私が信じることをしてやるだけだ。それが結果として娘にとっても良かったならそれは最高だけど、ママはこんなに手を掛けたのに一体どうしてあんたはこんな子に、なんてことは将来なにがあっても絶対に言いたくないなと今は思ってる。反抗期や子どもの自立を迎えたときにこんなことを思っていられるかどうかはまったく想像もつかないけれど。それでも、『「お母さんねぇなんでアタシを産んだのよ」「お母さんの子になんて産まれなきゃよかった」』ってだけは言われないように思われないように、娘の意思も汲んだ互いに幸せな生活を育児をしていけたらいいなあと思う。


 自分が親になり我が子の誕生日というものを初めて迎えてみて思うのは、娘には自分の誕生日を素直に心から喜べる人間になってほしいということだ。私は自分の誕生日がいつからか好きじゃなかったし、だから毎年毎年プレバースデーシンドローム誕生日前症候群とやらになっていたし、それはつまり自分のことが好きじゃなかったからなんだろうと思う。いつからそんなこじらせてしまったのかわからないけど、いつだって苦しかったし死にたかったし自分のことを自信を持って好きとは言えなかったし誕生日は嬉しくなかったんだ。
 娘は最近鏡や写真や動画の中の自分がとても好きなようで、目にすると笑っている。それが自分が好きだからなのかどうかはわからないけど、もしそうならいつまでもそうであってほしい。それが人間として正しい姿であるような気がする。
 そう思うと私は親に申し訳ない生き方をしてきたなと思う。思うけど、やはり今思うと、それも、親の育て方によるところも大いにあると思う。すべてがコントロールできる範囲の因果ではないことは重々承知しながら、それでも娘の今後の人生の良いことも悪いこともすべての原因を作ることができるんだという自覚は持っていたい。

概略

 私と夫がこういう育児をしてきた、娘はそれに対してどういう反応をした、というようなことはとても書きたいので追い追い記事にしようと思う。
 なにより良かったのは、早めから生活のリズムを親主導で作って、寝る時間、起きる時間、飲むまたは食べる時間、遊ぶ時間、というサイクルを確立できたことだと思う。それによって夜間授乳がなくなるのも早かったし、寝かしつけに何時間もかかるというようなこともなかったし、(娘が)毎日機嫌よく過ごすことができたと思っている。


 これからも娘の成長に合わせたそのときどきに必要な知識を身に付けることを厭わず、なにより娘の様子を冷静に我慢強く観察し、娘と、夫と、私と、みんなが幸せになる生活を探りながら作っていければいい。