猫が吠える

我輩は猫である。名前はみずき。

子を産んだ

 2月8日に子を産みました。

出産まで

 検診では前々から、大きめだから早めに産もうと言われていた。37週終わりの検診では、散歩などして体を動かせば今週中に産まれるよと言われる。
 38週に入った土曜日、最後の夫婦二人での食事のつもりで近所のちょっとお高いランチを食べに行く。おまかせランチコースだったけど、SFCの近くで育てられている「みやじ豚」を食べられたので大満足だった。
 私も夫も予定日ちょうどに産まれていたこともあって予定日どおりに産む心算でいたけど、ランチをしながら、なんとなく二人での週末は最後のような気がしていた。買い物などして歩き回ってから帰った。


 翌日曜日、昼まで寝て起きたら出血のような感覚。もしかしたら破水かもしれないと思いつつ昼ごはんを食べて様子を見る。
 なんでもないかもしれないけど一応診察してもらって安心しようと思い病院へ電話。入院準備して来てとのことなので、荷物を確認して夫に付き添いを頼んで登録していた陣痛タクシーを呼ぶ。
 検査すると、破水していた。そのまま入院して、陣痛が来るのを待つことに。これが14時半ごろ。翌朝までに陣痛が来なければ促進剤を点滴して産みましょうとのこと。
 破水しているのでベッドの上で安静にしているしかなく、陣痛も来ず、暇。付き添いの夫も暇。パソコン持って来て仕事しようかな、とか言いだすぐらい暇。母に入院したと電話したら、両親が面会に来ることに。夕食はステーキ。豪華でボリュームたっぷりでびっくり。「妊婦さんには多すぎるかな」と言われながら完食して助産師さんに「やるねー」と褒め(?)られる。
 20時で面会時間が終了し、翌日の説明を受ける。昼間に産むために朝早くから点滴を始めるとのことで、朝5時半起きと言われる。普段お弁当作りのために起きている時間と変わらなくてがっかり。


 歯を磨いたりしながらサンデースポーツを見た。プロ野球のキャンプの時期だった。ヤクルトのキャンプ特集で、中村が山田と川端に打率低いっすよヤバイっすよといじられてた。はやめに消灯して布団に入ったが、興奮か緊張か、なかなか寝つけなかった。ついったー見たらいきものがかりの水野さんがデビューまでの経緯をまとめてpostしてるのを見かけてリアルタイムでそれを見ていた高校生のころを思い出したり、子無し生活最後の夜くらい夫婦二人で寝たかったなあと思ったりしながらなんとか目を閉じうとうとしたり、目醒めたりを繰り返した。

出産

 2月8日月曜日
 5時半に起きて身支度をし、胎児モニターで赤ちゃんが元気なことを確認、促進剤の点滴を開始。最初はブドウ糖だけ入れて、すこーしずつ促進剤の量を上げていく。
 8時ごろ、うっすらと生理痛のような痛みを感じながらもまだ余裕があり朝食を完食。昨夜の黒縁めがねの助産師さんにまた褒め(?)られた。いつも通り朝ドラを見た。スーパーボウルの日だった。自宅で見るつもりだったのにまさかもう入院しているとは思っていなかった。病院はBSがうつらなくて観られなかった。
 9時半、急激に痛みが強くなり、2〜3分間隔の波が来る。母親学級やなんかでは陣痛は10分間隔から始まると習っていたのに話が違うぞと思いながら耐える。ナースコールをして、内診してもらう。このとき、波が来るたびに陣痛アプリで痛みが来た時間、引いた時間を記録していた。助産師さんに、「そんな余裕があるうちはまだまだだね、ナースステーションでモニタリングしてるから記録しなくていいよ」と言われる。朝から担当してくれていたのはガッツリ大阪弁の頼もしいお姉さんだった。BSうつってもスーパーボウル観てる余裕なんてまったくなかった。
 10時、立ち会い予定の夫が来てくれたが、痛みの波が来てるときは会話できず。ひどい寒気と吐き気がして、部屋の暖房をガンガンかけて、私と夫のコートを掛けてもらってもまだ震えていた。
 11時半、陣痛のたびにああああああ、とかううううう、とか声を出さないとやりすごせなくなる。静かに産もうと思ってたのにできなかった。一体あと何時間続くんだろう、無痛分娩にすればよかったと弱気になる。が、内診してもらうと子宮口が8センチ開いていて(10センチで全開で、赤ちゃんの頭が通れるので産める)、赤ちゃんの頭も下がってきていると聞き、意外とゴールが近いと知って気持を持ち直せた。この内診のあと、痛みが来るたびに勝手に下腹部に力が入ってしまうように。人生で一度も経験したことのない感覚だった。子宮が赤ちゃんを押し出そうとしていたのだろう。


 12時、内診。ほぼ全開になったので分娩室へ移動。進みが早すぎて助産師さんたちが慌てていた。退院診察のときに、同じ日に3人目を産んだお母さんと一緒になって聞いた話では、その人は私の直前に産んで分娩台で休んでいたのに、私の進みがあまりに早くて車椅子の準備もできないまま分娩室を追い出され、歩いて病室に帰ったらしい。悪いことをした。
 先生が登場して、助産師さん看護師さんもたくさん集まってきた。全開とは言われたもののいきんで良いとは言われず、何度か陣痛をやりすごす。何度めかで勝手にいきんでみたら、頭が出ていると言われる。やはり大きいらしい。大勢集まった助産師さんたちに上手上手と言われたのが、おだてられているだけだろうと思っていたけど本当にちゃんと赤ちゃんを押し出せていたらしく、分娩台に上がって10分で赤ちゃんが出てきた。
 出てきた子は頭だけでなく全身大きくて、助産師さんたちに「ムチ子ちゃん」と呼ばれていた、と、夫が言っていた。私はそんな周りの様子を見聞きする余裕はなかったようだ。それでもとにかく産まれたての子と対面した。想像していたより色白で、大きくて、かわいらしかった。母が私を産んだとき、真っ赤でお猿さんみたいで、かわいくはなかったと聞いていたのでその話とのギャップでそう感じたのだと思う。

その後

 あらためて綺麗にしてもらった子を抱いたのはたぶんそれから2時間ぐらい経ってからだったか。
 部屋に連れてきてもらい、寝かされたままの私の隣に寝かせてもらった。こんな小さな子をどうやって扱ってよいかわからず、こわごわとぎこちなく抱きながら初乳を吸わせた。目もほとんど開いていない、この世界のことなんてなにもわかっていなさそうな子が必死に吸っているのを見て、人間、というか生物の本能というのはうまくできているのだなあと感心した。


 それから写真を撮ったり夫と交互に抱いたりして、新生児室に帰っていった。私は入院する部屋へ。この日もごはんがおいしくて、いろんな痛みや違和感と戦いつつ完食。翌日から母児同室だったからゆっくり眠れる最後の夜だったのだが、産後ハイのせいか、うまく眠れなかった。

感想

 思い返してみるとあっという間で、嵐のような出来事だった。
 まだまだ先が長いと思っていたときの痛みは本当に辛かったけど、痛みなりに進んでいたので救われた。辛いというよりもむしろ楽しかった。これなら次も無痛にせず産めるかな。自然に来る陣痛を体験してみたい。今回無痛分娩も選択できる病院だったけど、陣痛を体験してみたくて普通分娩にしたんだ。だけど促進剤を使うことになったから結局自然の陣痛は体験できず。次があればそのときに。


 まったく子ども好きではなかったのに、自分の子は本当にかわいい。育児は辛いことしんどいこともものすごく多いけど、それ以上にかわいくて幸せ。体力と年齢と経済状況が許すならあと3人でも4人でも産みたい。

おまけエピソード

 タクシーで退院して自宅まで戻ったのだけど、そのときの運転手さんが偶然、本当に偶然、入院のときに呼んだ陣痛タクシーの運転手さんだった。行先を告げたときに「以前乗せたことありますよね」と言われ、よく見たらあのときの運転手さんだった。あのとき入院して、産んで、いま帰りなんですよーと話をした。行きは夫と二人で乗り、帰りは娘を抱いて3人で乗る。家族が増えたんだなあと最初に実感したのはこのときだったように思う。

2015年を振り返る

 2013年から記事を書いてないのに振り返るもなにもありませんが。
 史上最高かもしれないぐらいに溜まりまくったストレスの捌け口に文章を書く。

妊娠

 夏前に妊娠しました。来年2月に第一子が生まれる予定です。
 それによって体調は普段通りじゃないしお酒も飲めないのでまあそれもストレスが溜まる一因ではあるのですが。
 何よりお金がないことが最大の原因です。お金さえあればこのぐらい体調が悪かろうが2年ぐらいお酒が飲めなかろうがどうとでもなる。


 これまでの生活をまとめると、鬱病で休職→休職期間満了で退職→失業保険で生活→体調回復→お金が底を尽きるのでアルバイトを始める→妊娠→今後の生活を考えて引っ越すことにする→バイトを続けられなくなり専業主婦に、という流れ。
 会社を辞めたことによるのかどうかはわからないけど鬱はすっかり良くなり、いつのまにか夜寝て朝起きるという生活ができるようになっていました。そうして体調が回復してきて、結婚生活も3年目になり、子どもが欲しくなって作ったわけですが、もうちょっと現実的なところを考えてからにすべきだったんでしょうね。見通しが甘かったのでいまお金がなくてストレスで死にそうになっているわけです。
 バイトとはいえ月10万ぐらい稼げていたものがなくなると、日々の生活費や食費も夫から頂かなくてはいけなくなる、自由になるお金なんて一銭もない、という状態で、たまに欲しいCDや本を買うとか映画を観に行くとか友人と食事に行くとかそういうことが一切できないわけです。お金がないと引き籠もるしかなくなって、やることといえば家事、爬虫類たちの世話、あとはスマホゲームでもしているしかない、という状態です。
 まあ今更なにを言っても考えてもどうにもならないので、もうしばらくはただ耐えて、子どもを預けられるようになったら預けて働くしかないのですが。子持ちでブランクしかないような女が再就職なんかできるのかという重大な問題はあるけど。なににしても、自分でお金を稼ぐしかない。子どもを不幸にしないようになんとかしないといけない。
 それまで私がこの生活に耐えられるのかわからないけど。耐えられずにまた精神をやられたりなんかすると詰みますね。そうならないといいですね。

今後

 妊娠生活というのは多くの人にとってどうやらもっと幸せなものであるようだけど、私はこんな生活なのでまったく幸せではありません。ストレスしかありません。出産準備の買い物をするにしても、少しでもお金をかけないように必要最低限生活できるようにと考えていればお花畑になる余裕なんてありません。
 幸せな妊娠生活を送れる女性たちはおそらくちゃんと仕事があったりそれまでの蓄えやなんかがあったりして生活の基盤を手に入れてきているんでしょう。私はそういう努力をまったくしなかったので仕方がありません。勉強するなり仕事するなりかわいらしさを身につけるなりしておくべきだったのです。これから巻き返すのか、このままただ文句だけ垂れ流して生きていくのかのどちらかです。

うちのカメとかトカゲとか

映画をたくさん観てるのにまったく感想書いてないですがうちの爬虫類たちのおはなしでも。

カメ

去年、2012年の12月2日に、クサガメゼニガメの一種)の赤ちゃんがうちに来ました。
ずっとカメ飼いたいって言ってて、なぜか退院祝に父が買ってくれました。

「カメ欲しい」「カメ飼いたい」って言ってたので、買ってきたそのカメは、カメという名前になりました。
うちに来た4日後、12月6日の写真です。


冬にカメの赤ちゃんを飼いだして、1週間ぐらいはヒーターだけ入れてライトも当てないというダメな飼い主でした。
今思うとかわいそうなことしてたな。

それでも少しずつカメの飼育についての本などを読んで設備を整えて、順調に育ってくれたカメ。
こちらは1月初旬の写真。

3月末にはこんな立派に。

水槽も、はじめに買った30cm水槽では狭くなってきたので、いまは60cm水槽で生活しています。

トリッシュカシオペイア

そうこうしているうちに、また新しい子をお迎えしたくなってきました。
カメは、まだ正確にはわからないけどたぶんオスじゃないかと思うので、メスを買ってきて、将来は繁殖させたいなーと思っていたのです。
そんなことを思いながら、なんとなくカメを買ったペットショップに行ってみると、クサガメの赤ちゃんがたくさんいるではないですか!


その子たちの水槽の前で手を動かすとみんなしてこっちに寄ってきたり、私が動くとみんな追ってきたり、ものすごくかわいいので、旦那の許可も得ずに2匹お持ち帰りしました。

左上にいる子をトリッシュ、下にいる子をカシオペイアと名付けました。
クサガメの場合、生まれて数年しないと性別はわからないのだけど、女の子が欲しいと思っていて、女の子が来たらトリッシュという名前にしようと決めていました。
ジョジョの奇妙な冒険』で、カメに守られていたお嬢さまの名前からいただきました。


カシオペイアは『モモ』に出てくるカメの名前から。
甲羅が広いので、甲羅でおしゃべりするカシオペイアの名前がぴったりだと思って付けました。


こちらはもう必要な設備もエサも飼い方もわかっているのでお迎え初日からしっかりと飼育できています。
その結果なのか、初日からエサの食いもとても良いし、人間にも慣れて、とても元気に動きまわっています。

トカゲ(仮)とシモン

4月28日に、熱帯魚や水草、爬虫類両生類などのイベント、熱帯魚・生き物関連イベント|アクアリウムバスがあったので、爬虫類両生類好きとしては行かないわけにはいかないと、朝から行ってきました。


トリッシュカシオペイアを買ってきたとき、お店にアカハライモリがいて、ものすごくかわいくて飼いたいなーと思っていたので、アクアリウムバスでもアカハライモリがいるといいなーと思っていました。
その他、カメたちの快適な生活のための飼育グッズがあるといいな、ぐらいの気持でした。
しかし、そんなイベントに行ってしまったらもうそこにはかわいい生き物だらけで、どのお店のどの子もうちにお迎えしたくなってしまいました。


そんなかわいい子たちのなかで特別に惹かれたのが、フトアゴヒゲトカゲインドホシガメでした。
フトアゴはまだ3か月ぐらいの小さい子で、スタンダードな色だけどとても綺麗に色の出ている子です。
手に乗せさせてもらうと、とっても柔らかくて、ベタだけど首をかしげる姿が愛らしくて、私の顔を覗きこんできて、この子は私の子になるべきだ、と思い購入しました。


それからトカゲのための設備、エサのコオロギなどなど購入して、一日で信じられないほど散財してしまいました。


だけど、朝見たときからどうしても頭から離れない子がいました。
インドホシガメです。


6畳の部屋に旦那と二人で住んでいて、すでにクサガメ3匹とトカゲとコオロギがいるというのにどこでどうやって飼うんだとか、一日にそんなにお金を使っていいものなのかとか、悩みに悩んだけど、やっぱりどうしてもうちの子にしたいと思って、こちらも購入しました。


やはり今回もダメな飼い主っぷりを発動してしまって、水槽が足りない床材がないということになりました。
イベントから帰ってきてあわててホームセンターに行って飼育グッズをたくさん買ってきたけど、ホシガメはしばらく段ボール生活を送ってもらうことにしました。
段ボールに仮の床材を敷いていたのですが、ある日起きたら段ボールからホシガメがいなくなっていました。


よく見てみると床材を掘ってさらに段ボールまで掘って穴を開けて、外に出ていました。
その前から床材を掘るのが大好きだったこの子には、『天元突破グレンラガン』から、穴掘りシモンの名前をいただき、シモンと名付けました。


トカゲはまだちょうどいい名前を思いついていないので仮にトカゲと呼んでいます。

みんなの様子

こんなにたくさん一気に生き物が増えて、部屋がとても狭いし生き物たちもお互いが気になったり人間が気になったりするので、部屋を改造しました。
改造といってもラックを増やして熱帯魚屋さんみたいな部屋にしただけですが。


これでお互いが気になることもないし、温度・湿度管理も世話もやりやすくなりました。


朝と夕方みんなにごはんを用意したり、水を換えたり、掃除をしたり、温度湿度を管理したり、なかなか大変ですが、みんなのおかげでとても楽しい生活ができています。


まだ様子を見ながら設備を整えていかないといけないですが、なんとなくそれぞれの性格とか好きな食べ物とか行動パターンとか必要な温度湿度とかがわかってきているので、さらに本やネットなどで情報収集しながら知識と愛を深めていきたいと思っています。


大きめのベランダ付きの広い家に引っ越したいですが、それは今の部屋の契約が切れる、来年3月になりそうです。
それまで、5匹ともどんどん大きくなるだろうし、もしかしたらさらに仲間が増えるかもしれないけど、それぞれの快適な環境を守って元気な子に育ってもらいたいです。

ノート

中学3年生ぐらいのときから詩のようなものや文章を書いていたノートと、同じぐらいの時期から毎日書き続けていた日記があります。
私以外のだれも存在を知らなかったノートたち。
実家の部屋でも引き出しの奥に仕舞っていて、一人暮らしするときもまず一番に荷物に詰めて持ってきているもの。


家族にも友達にもだれにも言えない考え事をずっと書き溜めてきました。
大学に入ってからはもうほとんど書かなくなっていたけど、それでもときどき書きたくなっては引っ張りだして書いて、また隠してきた。
今婚約者と一緒に住んでいる家にももちろんあって、どうしようかなと考えていました。


今日婚約者が会社に行っているあいだにすこし読み返していました。
そして、そのノートたちを捨てることに決めました。


そのノートたちは、だれも知らない私の感情や思考を知っていました。
もし私が死んだり罪を犯して捕まったりしたときに私のことを代弁してくれるような存在でした。
そういう存在になるように、書いていました。


だけど今、結婚しようと決めた相手がいて、そんなノートがなくたって私のことを代弁してくれる存在ができたことに気付いて、捨てるときが来たんだなと思いました。
これまではだれにも話せなかったけど、そのころ嬉しかったことも悲しかったことも寂しかったことも苦しかったことも、今の気持や考えも全部話せる相手ができていました。
それはあの頃の私が望んで望んで、でもどうしても手に入らなかったし今後も手に入るなんて思えなかったものでした。


今ならあのノートたちに対してしかすべてをぶつけることができなかった私をなぐさめてやることができると思いました。
だから、あの頃の私を精一杯抱き締めて、ノートを捨てます。
普通ゴミに出して、婚約者との生活で出た生ゴミや段ボールやなんかと一緒に燃やされるようにするのです。


過去の自分を捨ててしまうようでとても苦しいことだけどそうじゃなくて、これから過去に頼らずに生きてくための、前向きな決意なのです。
今まで10年近く私を支えてきてくれたノートたち、ありがとう、さようなら、私はもう大丈夫です。しっかり生きていきます。

『東京うんこ』

観ました。

東京うんこ [DVD]

東京うんこ [DVD]


うんこうんこ連呼する、すごくくだらない映画でしたw
けどおもしろかったです。


ダラダラと過ごした日の夕暮れにひととダラッと観るのに適したかんじの映画でした。
たまにはこういう軽いかんじの映画を観るのも悪くないですね。

病院を逃げ出したはなし

3連休のさいごの月曜日の夜、外で過呼吸おこして袋使っても治まらず、救急車で病院に運ばれました。


友人とカラオケしようって言ってて、待ち合わせむこうが40分遅れるっていうからひとりで飲んでから飲み放題カラオケして飲み過ぎて吐いて、お店出てから過呼吸おこしてどうしようもなくなって、自分で病院行きたいって言ったらしいのだけど、救急車呼んでくれて乗せられて病院に運ばれた。
目回るから目開けられなくて救急車の中の様子とかまったく見られなかった。病院の部屋もどうなってるのかわからなかった。


看護師さんに「ゆっくり息吐いて」「自分でちゃんと呼吸しないと治らないよ」とか言われたけどそんなの無理です。
点滴されたり心電図とられたりなんかたくさん管をつけられてた。
途中で隣のベッドに運ばれてきたお姉さん(らしいひと)も過呼吸おこしてるみたいだった。2日前に中絶したのを思い出してしまったというようなことを言ってた。


友人にずっと付き添ってもらっていたのだけど、処置室には入ってこられなかった。
看護師さんになんでいないのって訊いたらここには来られないんだ、待合室で待ってるって言われた。
友人のいるとこ戻りたくてこんなところにいたくなくてすごく悲しくてどうしようもなくて泣き喚いて自分につながってた管を勝手に抜いて帰る帰るって言ってた。点滴抜いたら血がたくさん出てきてシーツが真っ赤になった。
看護師さんが慌てて来て、何してるのって怒られて、帰りたいの、じゃあ帰りなさい、自分で立って、って言われて、病院来るならこういうことしないでくださいね怒られて、友人がこちらに呼ばれてきて、荷物とか脱がされてた上着とか渡されて、よくわからないうちに気付いたら待合室にいた。


手続はすべて友人がやってくれて、お金は手持ちがなくて払えなくて、後日また行って払うことにしてもらった。


病院出たらなんか嬉しくていきなりテンションが上がって、あったかいココアが飲みたくなって自販機探したけどなかった。
タクシー乗って家の前で降りて、タクシー代払ったら財布が空になってて、家の近くのコンビニのATMはUFJ使えなくてすこし遠くのコンビニまで歩いて、お金下ろして、それであったかいココアを探したけどやっぱりなかった。


家に帰って友人と布団に入って抱っこしてもらってたらまた悲しくなってしんどくてつらくて泣いた。しんどい、もう疲れた、死にたいって声上げて泣いた。

いつもの薬飲んで寝て、気付いたら朝になってた。
会社に連絡して休みますって言って、また寝た。ずっと寝てた。ただひたすらしんどかった。
なんで病院から逃げてきたんだろうって、ちゃんと最後まで処置してもらえばよかったのに、こんなだったらクワイエットルームで拘束されてるほうがマシだったって思ってた。
友人もわざわざ付き添うために会社休んでずっと一緒にいてくれた。


夜になって、あったかいもの食べようって、明日会社行けるように元気つけようって近所のお蕎麦やさんに行った。
味噌煮込みうどんたべて、帰ってきて、気付いたらまた寝てた。
終電の時間になってしまっていて、友人は帰っていって、すぐにシャワー浴びて会社に備えようと思ったんだけど動けないしなんだか頭痛もするしでだらだらして、ようやくシャワー浴びたら頭の右側にぶつけたあとのような痛みがあったし点滴されていた左腕にアザが3箇所ぐらいと止血のガーゼ貼られてかぶれて赤くなっているのがあって色とりどりでひどい状態だった。


寝たいんだけど身体的にも精神的にもしんどくて寝られない。
いろんなひとが心配してついったーでリプライくれたりメールやらLINEやら送ってくれて、昼には会社のリーダーが電話までくれて、とてもありがたいと思った。
しっかりしないといけない。
明日は会社行かないといけない。

同窓会後遺症

中学と高校をふてくされて通りすぎて大学と就職はなんとなくやり過ごして仕事と憂鬱に追われて過ごしてる人間が小学校の同窓会に参加した話。
成人式以来だったりその前のいつだったかわからない同窓会以来だったり小学校卒業以来だったりする元同級生たちの顔を見たら誰も変わってなくて話してみても変わってなくて12年なんて思うヒマもなく酒を飲んだりしゃべったりタバコ吸ったりする。


よくつるんでたやつの一人はフリーターしてバンドやっててあとの一人はしばらくだれとも音信不通になったあとホストやってるらしい。
だから同窓会終わったあとその店に向かう。向かう。ドア開ける。
店やってないしやつもいない。いない。電話も出ない。また音信不通かよ。どんだけ心配かけたら気が済むんだむかつく。


仕方ないから二人でカラオケ行く。Syrup16gやらtacicaやらASIAN KUNG-FU GENERATIONやらRADWIMPSやら歌って飲んで歌って朝になって店追い出されて歩いて脳みそにアルコール回って記憶ぶっ飛ばして気付いたらカラオケしてた相手の部屋で目が覚めてキスしたりセックスしたり遅刻したりしながら仕事と実家への顔出しに戻る、そして同窓会後遺症をかかえた日常に帰る。


一番生きてた小学校時代が少し近くなった日常で、仕方なく働いて生活してこれから起こりそうなキラキラを夢に見ながら疲れた顔して生きる。